黒板への愛着.


ここ数日、たくさんの新聞社の取材を受けて、黒板が好きな自分で良かったとしんみり感じた.湯川秀樹の愛用した黒板が、私の阪大に設置されたとのニュース公開のことである.

畳6畳分にもなろうかという巨大な黒板を使い始めて、もう何年にもなる.4年前、理化学研究所で数理物理学研究室を主宰させていただけることになった時、兼ねてからの夢だった、大きな大きな黒板を設置させていただけることになった.その当時の自分のブログ日記にも感動が記されている.実験物理学と違って実験器具が必要ない理論物理の研究で、最も重要なのは、アイデアをぶつけ合う研究者の議論の場であり、アイデアを具現化する場である.そこに大きな黒板があることは、非常に大きな意義があるとの信念がある.

実際、理研の数理物理学研究室の巨大黒板は、僕を含む若い研究員のお気に入りになった.黒板の前にしゃがみ込んでチョークまみれになって、同僚と毎日過ごす.ある日、おとなりの原子核実験の研究室にいらっしゃる @nabe87 さんがtweetしてくれた写真には、"the ideal laboratory"との言葉が添えられていていた.写真は当時の黒板にまつわる典型的な1シーンで、研究員が黒板の前でぶっ倒れている姿が写っていた.@nabe87さんの写真は、廊下の通りすがりからの名写真として残っている.

この黒板から幾多の研究成果が生まれた.いろんなシーンを覚えている.初めてこの黒板に式を書いたとき.自分の書いた式に共同研究者がその上からペケを書いたとき.研究室を訪ねる研究者の方々の感嘆の声.理研の一般公開で、研究者のガチ議論を展示した時の、子供の感想の声.研究室から出版された論文の数で評価をすることは簡単だ.でも、科学の価値はそんなもんじゃない.新しい概念や式を発見した瞬間の快感、それを共同研究者と共有する喜び、あらゆる科学者からの批判による冷や汗、研究が成就した時の共同研究者との握手.そういうものの全体が科学を作って、そして進めて行く.理論物理の研究に置いて、その全てを傍観し記録してくれているのが、黒板である.巨大な黒板は、その上に長い長い数式を書かせ、そして式を指差す人の指の汗を吸収し、真剣な議論の眼を受け止め、そして式を消し、また真っ黒に戻る、それを幾千も幾千も繰り返してきたのだ.黒板を見るだけで、走馬灯のようにその議論が思い起こされる.僕にとって黒板は、自分の歴史の一部であり、そして、研究の生活を見守ってくれるお釈迦様のようなものだ.そして、少なくとも研究室に所属してくれた若い才能ある研究員たちは、その人生の少なくない一部をこの黒板の前で過ごしてくれた同胞だ.

大きな黒板に感動したのは、サンタバーバラポスドクだったときが初めてだったように思う.カリフォルニア大学サンタバーバラ校の理論物理学研究所には、その中庭にたくさんの黒板があり、あらゆる壁に黒板が付き、そしてその高さはまったく手が届かないほどであった.考え事をする時はよく中庭の黒板の前でウロウロしたものである.ウロウロしても一行も式が書けないことも多く、そう言う時は苦し紛れに全く関係ない式をスラッと書いて、そして消して、部屋に戻った.もちろん物理の意味は無いが、黒板に何か書くという行為自体が、自分の研究の心の整理に役立っていたようである.

黒板に式や図を書くと、チョークで手が汚れる.真っ白になる.服にチョークの粉が付き、そして汚れた手で払い落とそうとするものだから余計にチョークがつく.数時間も黒板で議論をすると、ひどい状態になる.けどそれは、僕にとって、勲章のようなものだった.科学の議論は一進一退で、数時間議論をして結局アイデアが全部死んでしまうこともよくある.それでも、手についたチョークの粉を水道で洗い流すとき、ひとりニヤリとするのである.それが、議論の楽しさ、そして研究の満足感につながっているのは明らかだ.

2012年の夏、「夏休みの宿題」と称して、黒板に向かう科学者を表現した動画を作成し公開した.これは、黒板を舞台に研究する研究者の姿をアーティスティックにただ表現したyoutube動画だった.その後、西村勇人さんという写真家の方がやって来て、巨大な黒板の数式を写真に撮らせてほしいとおっしゃった.どのような写真になるのかワクワクしながら撮影していただいたのだが、写していただいた黒板の写真を見て、驚くほど自分の奥の数式に対する感覚が凝集されていると感じた.その写真家の方がおっしゃるには、黒板の数式の美には、科学者の情熱と執念がこもっており、それは科学者でなくても感じることが出来る、とのことだった.僕は、理論物理学者にのみ分かり合えると思っていたこの黒板の感覚が、実はそうではなく多くの非科学者の方々にも共感してもらえると、そのとき初めて知った.僕の黒板に対する愛着はそのあたりから急速に周りに伝わるようになり、芸術系やサイエンスコミュニケーション系、メディア系の様々な方々とお会いする機会に恵まれるようになった.黒板への気持ちが、個世界を解放した.

阪大に着任の際にも、お願いをして居室に大きな黒板を据え付けてもらった.黒板は特注と言っても、そもそもほとんどの黒板が注文製品であり、枠を作ってそこにロールタイプの黒板紙を貼付けるだけである.巨大にするには、上下に二枚分の枠を作ればよい.阪大の巨大黒板も、理研のも、それだけである.しかし、壁一面が黒板であるという事実は、僕の心を大きく解放してくれる.何を書いてもいい、どこまで書いてもいい、というたったそれだけのことが、理論研究を大きく進めてくれる.

何をどこまで書いてもいい.

湯川秀樹の黒板が、阪大理学部に設置されたのは、僕の黒板に対する気持ちを理解して下さった方々の功績も大きい.改めて、関係者の方々にお礼申し上げたい.

今日も湯川秀樹の黒板で楽しそうに議論をする大学院生を見て、ちょっと、感動してしまった.