世界とつながる読書:『仕事に効く教養としての「世界史」』出口治明

世界史ほどイヤなものは無かった.一生、世界史と離れて過ごしたかった.そう思っていた.この本と出会うまでは.目から鱗が落ちる、という本に久しぶりに出会った.


高校の社会科で、まごうこと無く「地理」を選んだ理系の僕は、世界史や日本史を選択するヤツの気が知れなかった.1000年の昔にどこの国がどの国に攻め入って、誰が皇帝になってどういう政治をして、でどの国が滅んで.それ何なん?どこがオモロいん?今の僕の人生になんか役に立つん?「地理」やったら、いまその土地に住んでいる人がいて、将来そこを訪ねるかもしれん.何より、地図が面白かった.自分の土地と比べて、ああそんな土地もあるんや、と想像できる.

僕は高校以来、世界史をあえて避けてきた.本屋でも絶対にそのコーナーには近づかなかった.自分の世界史の知識は、中学の社会と、高校で無理矢理教わったギリシャ時代まで、で終了していた.

ある日、阪大の仲野センセという奇人(もとい才人)から「スゴい人が大阪に来るから飲みに行きませんか」との奇異なお誘いがあった.その方は出口治明さんといって、ライフネット生命保険の会長さんなのだそうだ.普段は人を褒めない仲野センセが、この人はスゴい、この人はスゴい、そればかり連発するので、楽しそうな飲み会に出かけてみることにしたのだ.

仲野センセをはじめ、その飲み会でのメンバーが濃すぎたため、とんでもなく濃密な時間が流れた訳だが、出口さんが発する言葉は、軽々しく聞き過ごせない堅さがあった.「私は世界で1000以上の都市を訪ねましたけどね、」という言葉から始まるお話に、僕は心のシャッターを全開にしてしまった.

その出口さんから、光栄なことに、ご著書が送られて来た.表紙に「世界史」と大きく書いてある.僕は表紙を眺めながら、ずっしりとした本のページ数が344ページであることを確認し、人生で観念すべき時が来たな、と、1ページ目を開いたのだった.

大変驚いたのは、この本が「世界史の本」ではなく、「世界史をありえない方向から楽しむ本」であり、高校の時に僕が発した疑問「どこがオモロいん?人生になんか役に立つん?」に真っ向から答えてくれる本であったことである.

第3章「神は、なぜ生まれたのか。なぜ宗教は出来たのか」を、トイレの中でむさぼるようにして読んだ僕は、「ああ、この本が高校の社会の副読本として先生に勧められて読んでいたら、人生変わっていたかもな」と深く感じた.中学や高校の授業でイヤイヤ覚えてきた、世界史と日本史のさまざまな事象が「なぜ」その時に起こったのか、が、5000年の大きな世界の流れの中で、人間個人個人の「イヤや」「エエわぁ」の感覚に全て基づいて、納得する形で読ませてくれるのである.

「ペリーが日本にやって来た、本当の目的は何だったのか?」「歴史は、なぜ中国で発達したのか?」「アメリカはなぜ発達したのか?」教科書では決して教えてくれなかった、数千年と世界の全体からの視点、それが、偉人一人一人の人間としての感情から、書き起こされている.なんということだ.

合理主義を押し進めた結果、フランスでは革命後、1日を10時間、1時間を100分にした時代があったらしい.しかしそれは12年間しか続かなかったらしい.へ?それ、試した国があったん?それで、あかんかったん?ということがさらっと書いてある.なぜそれが試されたか.それが、時代と世界の仕組みの中で、解説されている.

僕は、世界史はダイバーシティのみだと思っていた.世界史は「あんなこともあった」「こんなこともあった」の図鑑だと思っていた.それは全く違っていた.世界は、時間も空間も統合されていた.出口さんが全世界百何十カ国を訪ねて、この本を書いた、という事実に、再び心のシャッターが全開になってしまった.そして、「地理」は「世界史」と同じものを、違う観点から見ていただけなのだということが、高校を卒業してから20年以上たった今、ようやく腹に落ちたのである.

次に海外出張へ行った時には、それがアメリカでもフランスでもイギリスでも中国でも、絶対に自分が世界を見る感覚が違うやろな、読後にそう思った.そう思いながら読み終えて、「おわりに」に出口さんがこう書いているのを見て、グッと来た.「このささやかな一冊が、世界の見方を変える一助となれば、喜びこれに過ぎるものはありません。」

ほんま、変わりましたよ.