理研と、人の近さ。

理研に移って来て驚いたことは、人間の間の距離が近いことである。週末に、またそれを実感させてくれる出来事があった。
大学や研究機関のような巨大な組織に属していると、機関の中で自身のしたいアクションをとることは、自分の大きなプラスにならないという気がずっとしていたし、東大にいた頃はそれが当然だと思っていた。東大が悪いという訳ではない。東大は教育というミッションを抱えた非常に緻密な機関であり、僕には、そこで学生実験を教えるということだけでも、そのミッションの一翼を担う気概があった。しかしミッションが既に与えられているために、自身のアクションをそのミッションと重ねたり、また、自身からミッションを提案したり、ということは、少なくとも僕はしなかった。吹けば飛ぶような小さなことを除いては、ね。僕が助教だったということも理由の一つだろう。しかし、理研は、全く違った。
理研も巨大な組織である。国や国民からのミッションがある。しかし、なぜだろう、自立的に、しかも機動的に、自身から動いている実感がとても大きい。科学者の楽園、と長らく言われてきた理研は、果たして、僕には楽園なのである。それは、科学者を科学者らしくさせてくれる場所なのである。
楽園、という言葉の意味を考えてみると、それはかなり漠然としていて、おそらく人によって、科学者によって、定義は違うだろう。好きに何をしてもよく、一日中机について好きな科学をやっていればよろしい、それが楽園の大きな定義かもしれない。僕の楽園の定義は違う。科学が人によって全く違うように、その楽園としての考え方が違う。
僕はいつも、新しい物理は人との議論で発生すると信じている。自分の頭の中で思いついたことも、おそらく全ては、他の人との事前の入念でかつ執着的なディスカッションがあったからこそ、頭の中に残り、醸成され、思いつくのである。人との議論を重視するために、今まで僕は、議論が頻繁に行われている場所へ飛び込むことをしてきたように思う。世界の反対側でも研究会に誘われれば絶対に断らず、出かけて行って議論をする。
理研は、抜きん出た専門家が大集結しており、そしてそれら科学者が常に隣り合って議論している、そういう、僕にとっての楽園である。僕は気づくのに時間がかかった。人との関わり方を根本から変える必要があった。理研にいると、「できる」気がする。これは、人間同士が本当に近いこと、が大きな要因である。科学にとって、「できる」気がすることがどれだけ大きいことか。
週末に、野依理事長と面と向かって話す機会があった。機会があった、というより、野依さんに自然に話しかけることが「できる」雰囲気が常にある。で、問題だと思うことを直接話してみた。大声の議論になった。僕は納得できなかった。でも、ものすごく嬉しかった。心が震える感じがした。
野依さんは、理研と日本の科学をリードする、高潔な科学者である。あれほどすごいおっさんを、やはり見たことがない。