阪大集中講義。

先週は3日間みっちりと、阪大で集中講義をさせていただく。みっちりと組まれたスケジュールで僕もがたがたに疲れたけれど、聞いてくださっていた皆さんはもっと疲れたに違いない。一日目は6時間やったし・・・とにもかくにも、大変楽しい3日間でした。尾田欽君、阪大の皆様、本当にどうもありがとうございました。

実のところ大阪弁で講義をしたのは初めてやったから、どうもリラックスしすぎていた感もあるかもしれない。しかし、おそらく聞いている方々にとっては、スピーカーが緊張していることほど無意味なことはないので、むしろそれでよかったのかも、とも思う。それにしても、毎日大阪弁で会話をするということの健康的なこと。理研大阪弁を使おうとするけれども、なぜかやはりすぐに大阪弁から離れていってしまって、標準語「っぽく」なってしまうのが、いかん。娘もべらべらと標準語を話すし、それが朝から移ってしまって、かなわんわ。こうして日記を書いているときも、大阪弁で漢字変換しようとするとえらいややこしいことになるので、なんとなく標準語っぽくなってしまう。いやほんま、大阪弁の漢字変換って、めんどくさいでしょ、関西人の諸君。何優天然(なにゆうてんねん)、あほ茶腕(あほちゃうで)、とか・・・あかんわ。

話す言葉が違うと自分の性格も違ってしまう、というのは皆そうなってしまっていると信ずる。英語と日本語のときは違いが明らかに出ていて自分でも面白い。英語で話しているときは、何というか日常の日本人としての自分から遊離している感覚がああって、その感覚は、何というか、恍惚とする感じになる。普段の自分では出来ないようなことが思い切って出来てしまうような人目を気にしなくて良い開放感って、あるでしょう。英語を話すというというのは基本的に自己主張を無理なく開放できる瞬間で、日本語で話しているときの、周囲を気にする日本人的な感覚が薄らいでいくというのが、自分でもよく分かる。あれ? 英語で話しているときのほうが本心が出る、ちゅうことか? うーん、それはよく分からん。英語で話しているときは本心は出ない気もするんやけどなあ。

それにしても、割と講義はうまく進んだように思う。やっぱり、用意したマテリアルの半分ほどは結局話せなかったけれど、でも、構成があまり無理なかったので、割とまとまりのある感じで終わることが出来た気もする。これは、今までの経験を参考にしたところが功を奏した。全体構成を、どこででも終わることができるようにしておくというのはかなり重要で、事前にどのくらい質問が出るか分からないし。面白かったとおっしゃってくださった方もいらっしゃったので、いろいろと準備してよかったと思う。

今頃地球の反対側ではStrings2009が開幕している頃。年に一回の祭典が開かれている。ローマという街の魅力に惹かれていく人も多いやろねぇ。(実際に参加すると、街を見て楽しむなんていう時間は全然無いんだけどねぇ。会場との往復の徒歩が観光といった感じで。)今年も参加したかったが、このところ出張が多すぎて、断念。Webにスライドがそのうち出るかな。