感動した。

人の講演を聞いて目頭が熱くなったのは、久しぶりだ。いや、初めてかもしれない。このおっさん、ただもんやないわ。

誰の講演って、理研の野依理事長の講演。昨夕の理研研究員会議総会で、理事長が1時間ほどの講演をした。はっきり言って、何も期待していなかった。けど、講演の最後のあたり、このおっさん、ただもんやないわ、そう思た(関西弁で発音してね)。

話は理研の置かれている状況と、例の「仕分け」のいきさつから始まった。理研がどのくらい税金を使っていてどういう成果を出しているかということを詳しく述べる。野依さんの前の研究員会議幹事の方の講演も、社会的な点を計数化して科学的に解釈しており説得力があったが、野依さんの話は、さらに説得力があった。理研に投入されている税金の額の大きさ。国民の税金のどれだけを我々が使っているか。そして、アウトプットを国民にどのように示すべきかという話になった。僕はてっきり、やはり経済に直接関係のある事業を延ばす必要があるとか、即応用性がある研究分野に集中投資すべきだとか、そういう話になるんではと思った。そやかてそれが自然でしょ。国の財政が破綻している今、理研がその価値を判断されようとしているときに、やはり社会(すなわち国の景気)への直接的なレスポンスが求められるのは明らかでしょ。理研はそのような方向にも全力を出しているのは知っているけど、まあた理事長はそんなことを言い始めて我々をうんざりさせるんやないか、そうふと思たんやわ。

ほしたら、違うんやわ。理事長はゴーギャンの言葉を引用した。「ゴーギャンはこういっております。『我々はどこから来たか。我々は何者なのか。そして、我々はどこへ行くのか。』我々理研の人間は、この人類の『根源知』を追求すべきだ。社会に対する基礎科学のの有用性とは、人類の根源的な知への欲求を深く探索し、文化に貢献することである」と言い切った。

事業仕分けに際して、国民の目に明らかになったことは、基礎科学という文化を継続発展させている理研の、その「知への情熱」が全然国民に伝わっていないということだ。そういう、理研の全員が本来すべきであること、すなわち、説明責任、を、忘れている人が理研内に多いんじゃないか、と野依さんは言った。「仕分け人に、『我々は人類の知という根源的な活動に携わっている』と堂々と反論したらどうだろうか。」

堂々と胸を張って反論するためには、そういう社会発信の努力を惜しんでこなかったという事実がないといけない。理事長にそういわれて、はたして僕はそれをやってきたか?と自らに問うてみた。やってへん。やってへんかったわ・・・・このブログは自己反省の場であって社会に対する情報発信の場ではないと決めてきたので、自分の、このめちゃおもしろい研究を、世の中の人に発信するということをまったく怠ってきた。研究者の社会には積極的にかなり発信したつもりではある。しかし、研究社会の外に発信したのは、本を書いたのと、一般向けの雑誌にいろいろと書いた以外のことは、出来ていない。

野依さんの言葉に目頭が熱くなったのは、結局、なんで自分が研究者になったのかということに改めて気付かされたからやとおもう。物質は根源的には何で出来ているのか、宇宙はどうやって出来たのか、そういう問いに胸を突き動かされて科学者になったはずやのに、日常でそれを見失っていた。やれ今日はこの書類を書かないといかんとか、そういう日常の煩雑なこと、プラス、今日はこの計算をやりたい、このアイデアを試したい、この人と議論したい、そんな研究の逐一のステップ。そういう日常の中におぼれていた。野依さんに、一気に、自分の根源のところに引き戻された気がした。僕はこんなおもろい研究をやってる、すごい興奮するでしょ、そういう感覚をもっと世の中の人に伝えるということを忘れていたことを気付かされた。

このおっさんが理事長でよかった。