物理学会。

バスを降りてみると、広い岡山大学のキャンパスは、これこそ大学のキャンパスというのびのびとした雰囲気。時計台前広場の前にはゆったりとした広場があり、それを囲むように理学部などの建物が並んでいる。建物は、京大に昔あったような懐かしい色合いの建物で、良い大学の雰囲気を伝えていた。東京の色々な大学のどれを見ても、こんなのびのび感は全く無い。せわしなく会場へ向うために芝生を横切っている自分を見つけて、ああ、ここでは学生は芝生を横切らなくてもきっとのびのびと広場を歩いているに違いない、と想像した。

岡山は自身の生まれた福山に近いということもあり、親近感がある。スーパーのレジの人がしゃべっている言葉を聞くとホッとする。海と山が近く、魚がうまいということも心に安堵感を与える。学会に「行く」というより、むしろ「帰る」という表現が近かった。しかし、仁科の生家が近いということは、Twitterで知るまでは知らなかった。仁科センターで近々研究室を開くというのに、仁科の生家も拝んでいないというのでは失礼かもしれないと思い何とか時間を作って訪ねようとしたが、結局時間がなかった。

時間がなかったのは今学会の運営委員をやっているからで、会場に貼り付いていなければならないというのが大きい。いつもならいろんな領域のセッションやシンポジウムを回って楽しむのだが、今回はそういうことで素粒子のフォーマルセッションをずっと楽しんでいた。やはりプログラムを自身で組んだ以上、参加者講演者の方々がプログラムをどう感じているか気になった。「このプログラムよく考えて組まれているね」と優しく声をかけてくださった方もいらっしゃる一方で、講演中に「何故僕がこのセッションなのか分からないのですが」と口にする講演者もいて、やはり感想は千差万別のようだ。結局ベストを尽くしても講演者全員に満足してもらうことは不可能なので、不満を聞くことはずいぶん覚悟していたのだが、一人でも良いプログラムですねと言ってくださった方がいらっしゃって、それはかなり安心を与えてくれた。いずれにしても、参加者講演者のみなさま、学会を盛り上げてくださりありがとうございました。

その中でもひときわ皆さんが非常に高い評価を下さったのが、米谷さんの「弦理論とは何か:回顧と展望」と題した招待講演の企画だ。ひとえに米谷さんのすばらしい講演、に尽きる。正直にいって、感銘を受けた。同じ感慨を抱いた方は多かったのではないかと思う。40年の弦理論の歴史を米谷さん独自の深い観点から再考察され、現時点での理解をまとめ上げたその講演は、誰にも出来るものではない。米谷さんが最初に言及したとおり、米谷さんが退官されるということで僕が企画した招待講演ではあったのだが、僕の予想をはるかに高く超えた、非常に良い講演だった。講演後は米谷さんを囲んで夕食。さんざん弦理論の方向性も議論させてもらい、それもうれしかった。

寺嶋さんの企画講演は大変分かりやすかった。学会会場も終始アクティブな雰囲気だったので、うれしい。いくつか小さなトラブルがあったり、また講演時間が15分ではなく10分だということを理解していない講演者がやはりほとんどである(!)ということを除けば、順調に進んで本当に良かった。(参加者講演者座長の皆様、ご協力ありがとうございました。)

ところで、学会は講演時間が短いと文句を言う人がよくいるようだが、個人的な意見をここで言うと、そもそもそういう発言は聞いている人の立場を全く考えていないということに尽きると思う。話というものは、エッセンスを伝えるのであれば、5分でも済む。決められた時間内にどういうメッセージをどういう相手に伝えるかということを真剣に考えれば、スライドに何を書くべきかはおのずと決まると思う。早く終わって喜ぶのは聴衆で、学会(も含めた全ての研究会)は講演者のためのものではなく聴衆のためのものだ。

僕がこういう考え方になったのはつい2年前のことだ。理研に、英語発表の方法を教える先生がいらっしゃって、プレゼンとはどういうものかを叩き込まれた。彼の言うことは当然で、プレゼンとは聞く人の立場にたって構成するもの、というのが第一原理である。当たり前だ。しかしこの当たり前のことを実践できている人は非常に少ない。僕もまだうまく出来ていない。こういう問題が存在るのは、そもそも、プレゼンも研究者の能力の一つであるはずなのに、その教育が全く大学院でなされていないことに原因がある。アメリカに行くと、非常に美しいプレゼンに出会う。そういうプレゼンは、自然と新しい研究の芽につながっている、と言うと、研究者のプレゼン習得にモティベーションが上がるかもしれない。

話がそれた。素粒子論懇談会は思ったより人が集まっていたように思う。昔は会場に入りきらないくらい人が集まっていたが、最近は若い大学院生の姿がほとんど見えない。これは非常に問題だと思う。素粒子論グループという母体が存在して当たり前でその恩恵を自分がどれだけ受けているかに気づいていないせいだと推測される。また、自分が参加して意見を述べるとそれがコミュニティーのためだけではなく自分のためにもなるということを知らないため、もあると推測する。残念なことだ。素粒子のコミュニティーが物理の中でどういう位置にあるのか、コミュニティーのこれからの動向、などを知るためにも、是非若い人にも出席して意見を述べて欲しいと思う。僕は確か3年ほど前に、素粒子論懇談会で学会プログラムの改革が議論されたときに、色々意見を述べた記憶があるが、今回は運営委員としてプログラム作製に携わり、逆の立場から見て昔の自分の意見を実現することが以下に難しいかを思い知ったところだった。

学会、楽しかった。