理研一般公開。

いやー、楽しいの一言。僕は、お隣の延與放射線研究室を少しお手伝いした(というより邪魔をしたかもしれなくて、それで打ち上げに参加させてもらった)身分なのだけれど、ほんま楽しかった。まずは、口をあんぐりあけて霧箱に見入る小学生たち。そういう、ほんとの科学に初めて触れてびっくりしている小学生をみるのは、感動モノやで。まさにこういうところから将来の科学者が育っていくんやなあ、と実感。そんで、見学者でも中学生や高校生になると、パネルの難しい言葉の洪水から自分の好きな単語を見つけて不思議がっている。一方、幼稚園保育園の子供たちは、いろんなコマをまわすのに夢中になって。

科学というのはやっぱり、こういうところから出発するんだな、と深く感じた。娘(小学一年生)と娘のお友達(ダダさんファミリー)を仁科センターの重イオン加速器見学に連れて行く。娘たちが超伝導リングサイクロトロンを見た時の「でっかーーーい!」の言葉。嬉しかった。人類の知識の粋を集めた巨大な装置、その威容といい、複雑に絡み合ったケーブルがかもし出す芸術といい、ひとめで、これはすごい、と小学一年生にも分かる魅力。「ねぇあの蛇みたいなのなあに?「ケーブル」ってなあに?」「どの色のところが磁石になってるの?」「超伝導ってすごいんだね!」小学一年生に見せることが出来る幸せというのはまさにこのこと。ふしぎだな、すごいんだな、という、人間の最も根源的な力を生み出す源、それをやっぱり理研は持っていて、一般公開は「重要」という言葉では伝えきれないほどの大きさを持っている。卑近だが娘の目がきらきらしているのを見て、やっと、そういう、根源知への欲求が確かに自分の中にもあると分かった。

娘はRIBF棟の見学でもらったビー玉を大事そうに抱えていた。あんだけすごい科学を見て、結局ビー玉かい!!ってはじめは思ったんやけど、よく考えてみると、小学一年生にとっては、ビー玉も超伝導リングサイクロトロンも同じなんや、ということに気づいた。小学生のときは、こんな風にいろんな不思議が見えていて、自分自身でその不思議なことに触って手を動かして実感できるという、もっとも根源的なところの喜びがある。人間、成長していくと、世間の「常識」を学んで頭がでっかくなって、不思議だと思う気持ちが薄れていく。そうや、小学一年生は、実はもっとも「人間的」なんや、と。

そういうのを見ていると、研究者である僕も、結局常識にうちまかされているかもしれないという危機感がひしひしと伝わる。これって不思議だな、と思う気持ちが既に専門化しすぎていて。専門的にしか、不思議さを捉えられなくなる、というのに危機感を感じる。娘にサイクロトロンを見せたいという思いで臨んだ一般公開、じつは自分も学ぶことが非常に大きかった。複雑な数式をいじくり研究の最先端をやっているという充足感、それは実はsecondaryなことで、本当はその根元の、自然の不思議さ、が原動力になっているということを実感させてくれた。去年の研究員会議での野依理事長の話、「理研は根源知をやっているんです」が頭をよぎる。今日の一般公開で、本当の「一般」の人たちに、クォークって不思議でしょ、って何回も何回も話しているうち、自分の心にそれがすりこまれていった。言質という言葉があるけれど、自分で何度も話すということは、自らの深層心理に多大な影響がある。一般公開は、じつは一般公開の参加者のためだけではなく、理研の研究者のため、ということがよく分かった。

楽しい一日やった。