読書。

しばらく、一気に分厚い本を読むなんてことがなかったのだが、久しぶりに一気に読了した本が現れたのでここに読後感を少し書いておこうと思う。その本はサスキントの新しい本。

ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの闘い

ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの闘い

一気に読了したのは、この本が面白かったという理由がひとつと、GWでたまった疲れが出たのか風邪気味で画面を見る仕事にうんざりして本を読んでみたという理由がひとつ。どちらの理由が強いかはよくわからない。いずれにしても、面白い本ではあった。僕はこの本が、物理学者でない一般の読者にどう受け入れられるだろうとか、わかりやすいかとか、そんな視点ではもちろん読んでいないので、そんな感想は一切書かない。だから、ここに書くことは書評でもなんでもない。

サスキント氏とは一度議論をしたことがあるだけで、彼の人となりを僕は知らない。偉大な物理学者であることは理解している。僕には到底想像もできないようなとっぴな論理展開をする「すごい」物理学者だということだけ知っている。だから、ぜんぜん親近感が沸かなかった。この本は、物理の解説を意図したものではなく、サスキントの個人的な回想録であると分かって、俄然、この本を読むのに興味がわきあがってきた。読後感として、なんとなく少しサスキントも一人の人間であることが分かった気がして、それが唯一の収穫だった。いい読後感。

こういう感覚って、たとえば、朝永振一郎の動いている姿をテレビで動画で見たりとか、そういうのに近い。偉大だと分かりきっていてしかも自分では手の届かない人、その偉大な業績のみ知っている人、というのは、どうやってその偉大な業績に到達したのかということが想像できず、神がかりな人間のような想像しかできない。朝永の例で言うと、大学院のころ、朝永の『滞独日記』を読み、朝永の人間味あふれる苦悩を目にして大いに親近感が沸いたものだった。KEKの一般公開で、朝永の動画を公開していたが、それを見たときも感動した。朝永が単に動いているということに対して。NHK湯川秀樹の秀逸な番組でもそうだった。湯川がどうしたこうしたということよりも、まず、湯川が歩いている映像に驚愕した。湯川が人間であるということを目の当たりにしたということが大きな一歩だった。サスキントのこの本もその感覚に近い。

ペリメタ研究所でHolographic QCDの講演をしたときに、ニコニコしながら聞いてくれていたサスキント氏とは、講演のあとに思い切って訪ねて議論をひとしきりしたが、そういう短い議論では、彼の人となりを理解するのは不可能だった。楽しくお互いに質問をし、議論がかみ合って過ごせたことは覚えている。しかしその議論だけでは、彼の偉大さは分からなかったし、ちゃんと分かったことというと、Holographic QCDを非常に面白いものであると彼が認識しているという点と、彼の人懐っこそうな笑顔と話しっぷり、それくらいかもしれない。しかしもちろん会う前からずっと、彼は偉大な物理学者であることは知っていたので、むしろ、会ったときのその感触とのギャップが大きかったように思う。この本を読むと、そのギャップが若干埋まる感じがした。

アスペンに行くくだりや、サンタバーバラの会議でのホーキングとの対決の直前にトーマス・クーンの『科学革命の構造』を読んでいたというくだり、ニュートン研究所に行くくだり。その場面がまざまざと想像できる感覚がふつふつとあって、むずむずした。クーンの本はM1のときに読んでいたら「橋本君そんな本読んでも研究にちっとも役に立たないよ」と先生から言われたことを思い出す。今思い直しても、それはその通りだった。日々の研究には役に立たない。僕の一生の研究にも役に立たないかもしれない。しかしホーキングとの対決の直前にサスキントがそれを読んでいたということは僕にとって、それはそれは衝撃だった。えらくむずむずした。

M1のときに聞いた、「時空は泡立っている」という益川さんの言葉がずっと耳に残っているのだが、15年たってその言葉をこの本で読むとは思いもしなかった。サスキントがホイーラーに初めて会った時に、ホイーラーがそう言ったのだった。

さらにびっくりしたのは、1972年にサスキントがファインマンに初めて会ったときに、「ブラックホールの分裂が原子核の分裂に似ているのではないか」と議論した、というくだりを読んだ時だった。それから40年近くもたって、僕はその研究をしている。やっぱし、ホログラフィック原子核の議論をしにサスキントに会いに行くべきやろか。