世界の反対側から。

理論科学の研究者というのは、世間的なイメージで言うと、おそらく研究室に閉じこもってうろうろしたり黒板に字を書いたり、机に式を書き散らしたり、で、頭がぼさぼさで世間との接触も薄く、閉じこもりがちな、そして人嫌いで、・・・という印象だろう。間違いない。で、僕も大学院の半ばまではそう思っていたし、そうなろうと思っていた。一日中好きな物理を考えて過ごせれば、それであわよくばそれで生きていければ、それで大変幸せだと思っていた。そうなりたいと努力していたのが、いまから思うと良かったともいえるし、今でもそうしたいと思っている自分がいる。けれど、実際に理論物理学者を職業とすると、この世間的なイメージとは程遠い自分がいる。
もちろん頭がぼさぼさとかファッションに気を使わないとか、そういうところは「程遠い」というかむしろ近いのだが、そういうところじゃなくて、研究室に閉じこもって自分の世界をつくり人との接触を切って、・・・というところ。僕は物理なので、数学はまた違うのかもしれないけれど、少なくとも僕にとっては、物理は人との接触の中で一番大事なところが育っていくということを、大学院の半ばまでは知らなかった。ハイゼンベルグも言っているが、物理は議論から生まれるのだ。だから、人との接触が本質的な位置を占める。
自分の物理を進めていくということと、人との接触が本質的だということは、全く矛盾しそうな気がするけど、そんなことは全然無い。人と接触すると、その人がとことん考えてきた問題とその人なりのその問題へのアプローチが、一瞬のうちに自分の前に提示される。そして、その人のアプローチと自分の考えが交差した瞬間、新しい方向が開けたり、新しいアイデアが出てきたりする。それで、それが、その人との共有財産になったり、さらには自分の物理観を大きく育てていくようになる。
こう書くと、自分の形成を他人任せにしているような感じがしなくもない。しかし、自分と言うのは、周囲にいる人間と比較して自分という概念を作っていくわけで、どんな形にしても、いろいろな異なる人間、文化的背景、世界、と接触することをもってしか、自分と言う概念を広げたり強固にしたり発見したりは出来ない。なので、自分の物理を構築する上で人と議論し、もしくは人の論文を読み、もしくは人のセミナーを聞く、ということは本質的なことであるというのは自然なことだ。
だから、僕は議論と交流は自分の物理をやるうえで最も大事だと思っている。もちろん、アイデアや方法が見えてくれば、机に座ってそれを計算で長い時間かけて追っていくというのは本質的な作業だし、そこで新しいことも見えてくるわけだが、その出発点はやはり議論にある。
とかなんとか言っていても、じつは、僕自身が議論を楽しんでいて、議論を楽しむことが目的の一部と化している趣が強い。これは自己正当化といってもいいし、良い言い方をすれば、無意識のうちに自分の物理のためになるような方法を自分で好む傾向を作り上げていると言ってもいい。なんにせよ、僕は議論が好きなのだ。
話が相当ずれたが、何でこんなことを書いているかというと、先日、世界の反対側からやってきた物理学者の友人と、夕食を楽しんだからだった。物理をやっていなかったらこの人とは絶対に出会っていなかったし、物理をやっていたから出会えて、そしてそれを存分に楽しんでいる自分がある。まあこんなことは物理でなくても他の仕事でも趣味でも同様なことが多々あろうが、僕は物理学者というのは閉じこもって自分の世界に入り込んで、という印象を大学院生の半ばまで持っていたので、今でもそういう感覚が全く抜けておらず、こうやって地球の反対側からやってきてくれた人と親しく楽しい時間を過ごすと、昔想像していた自分と比較して大変なギャップを感じてしまう。で、大きな非日常感を持つ。
イギリスでサバティカルを過ごしていたときに、共同研究者であるイギリス人を自宅に招いて、談笑していた。日本の習慣と伝統について話が及び、日本では、学年が一年上か下かだけで話し方や敬語が全く変わるのだという話をしていた。茶目っ気のある彼は、じゃあ俺がKojiより早く生まれていたら尊敬しろよ、と冗談ぽく言って、年を比較し始めた。生まれ年を聞いたら、なんと僕は彼と同じ。で、生まれた月を聞いたら、なんと同じ。で、生まれた日を聞いたら、なんと、ぎりぎり僕が一日早かった!しかし彼は、イギリスと日本では時差があるじゃないか、時差を考慮したら、と食い下がる。なんてこった。結局、時差を考慮しても結局僕のほうが半日早かった。
いや、だから僕が尊敬されるべきだとかいう笑い話ではなくて(実際大笑いしたが)、非常に不思議なのは、ほとんど同じ時間に世界の反対側で生まれた二人が、全く違う国で違う言葉を話して育ちながら、30年経って、出会いそして同じ物理を深くそして楽しく議論している瞬間が存在しているということだった。これは大変不思議な感覚だった。そしてその瞬間、僕と彼は実はそれまでに同じ数の論文を書いていたのだった。全く別な人たちと。こんな偶然が世の中にある。で、科学というものは、そんなことを可能にするくらい人類共通な言葉だ、ということなのだ。
これからも、そんな不思議な感覚が訪れる機会が何回もあることを、全く疑わない。