生死と素粒子論.

弘前の学会.素粒子論懇談会が終わった夜、飲みに出たら、居酒屋に素粒子論屋が集結していた.いろんなグループがたまたま、というか、狭い街に大量の素粒子論屋がやってきて学会をしているもんやから、必然的に、飲み屋が素粒子論屋で埋まるという恐ろしいことになる.向こうのテーブルからは「摂動論が」とか聞こえてくるし、下の階からも聞き慣れた声が響く.で、いろんな人がテーブルを行ったり来たりの大宴会となった.僕は一階のテーブルではなぜか絞られ、向こうのテーブルでは握手し、こっちのテーブルではこりゃまた楽しい話題に花を咲かせた.
学会の醍醐味というのは、こうやって普段は離れている研究者と懇親することであることは間違いない.次の日の朝は招待講演ということやったのだが、二次会、と言っても一次会が9時からやったから(素粒子論懇談会は夜の8時まで)時間的に遅いのだが、のラーメンに誘われてついて行く.そこでの話題がまた最高やった.
まあ僕は素粒子論屋でも、いわゆる「フォーマル」分野に属する.素粒子論には後二つ分野があって、現象論と格子である.これらは、アーカイブでのプレプリントの分類に直結したコミュニティ分類になっている.僕は最近は現象論分野の方にプレプリントを出すことが結構あるので、フォーマルとは言いがたいのかもしれないが、やはりフォーマルなのである.大学院で研究を始めて10年以上は、自分の書いた数十の論文に一回も「単位」が登場しなかったのだから、まさにフォーマル分野である.そやから、現象論分野の人たちの語るのを聞くことは、やはり楽しい経験なのである.
素粒子現象論は、夜明けの時代を迎えている.LHCが動きだし、今にも、出版された論文の9割以上が死ぬという時代がやってきている.そういう生死を賭けたモデルビルダーの発言は、苦く、そして楽しい.その苦く楽しい現象論屋の人生観がにじみ出る二次会やった.
一方フォーマル分野の論文というのは、生きるか死ぬかという感じではない.美しいかそうでないか、という観点で判断がされる.たいていのフォーマル分野の論文は、美しくない.ごくまれに、大変美しい論文が登場する.そういうものを書きたいと常日頃考え、努力するのがフォーマル分野の素粒子論屋の姿、いや、あるべき姿、やと思う.一方、現象論分野は違う.生きる模型を書くことが、もっとも重要なのである.そこに、もちろん美しさという観点も入るはずなのは明らかだ.なぜなら自然は美しいはずのものであるので、生き残る模型というのは自然がそれを選んでいるのだから美しいはずだからだ.本当に、何千もの論文のうちたった一つという割合でしか、自然は選んでくれない.まさに、ほとんどの論文が、結果的に嘘だったということになるのである.しかし、それは科学のあるべき姿である.現時点で知られている現象を説明する模型を書き、そこから予言を出し、実験で確証する.間違っている予言は山のようにある.LHCが動きだし、ヒッグスの質量を確定する、もしくはヒッグスが発見されないかもしれない、そのような実験的革新は、まさに9割以上の素粒子現象論の論文を死滅させる.

「お前(の模型)はもう死んでいる」

凄いよ.そう友人と言い合える、素粒子現象論というのは.フォーマル分野に腰を据える自分から見ると、うらやましい.で、僕は時々最近現象論分野のプレプリントを出す.ちょっとでも自分がその生死の興奮を味わいたくて.しかし、フォーマル分野で育った人間は、踏ん切りも悪く、センスも悪い.それを承知で、乗り込んで行くのだ.