京都。

前回京都に帰ったのはいつだっただろう。それがずっと前に思えるほど、京都に帰るといつも懐かしい感じがする。バスから見る町並み、バスを降りたときに目に入る緑、北部構内の門を入ると感じる空気。京大は、やっぱり、そこに自分が立つだけで、自分の中の原点に立ち返った感触が強く、見る緑が全て、特別な思いいれのある、初夏の桜の美しい緑に見えてしまう。

基研の新しいパナソニック国際交流ホールのお披露目式に出席して、もちろんかつての大講義室がもう存在しないという深い感慨があったのだけれど、それよりも、「新しい旧館」の過ごしやすさにただただ驚くばかり、ホールの借景になっている湯川桜は、かつての旧館を思い起こす数少ない材料の一つともいえるほど、旧館の二階と三階はがらりと変わってしまった。三階のきれいなビジター部屋に落ち着いて、裏にすぐ広がっている植物園を眺める。植物園というとこれも深い思い出があって、京大に帰るたびに、当時の自分に帰るという意味でぶらぶらするのだけれど、それをじっくりと眺められるようなビジター部屋に納まっている自分が不思議に思えた。

基研の旧館があまりにも変わってしまったので、改修後の物理教室はどうなっているんだろうと思い、朝早く眺めに行く。幸い、中庭は当時のままだった。

研究会は学ぶところもあり、もちろん宇宙論だから門外漢だけれども、これからの更なる観測の結果がどうなるかという興奮を感じることができた。寺嶋さんにいろいろと教えてもらう。楽しかった。たった二日間だったけれど、やっぱりこういう機会が無いと、日常におぼれてしまう。日常はもちろん大事なのだけれど、日常の生活を決める大きな選択の底には無意識のうちに非日常が流れているので、こういう機会を大事にせねばならない。

京都というだけではなく、関西は、町を歩く人を見るだけで、心が洗われる感じがする。心のふるさとという言葉は本当にある、ということが字面でなく感じられた。俺は一体何をやりたいんだろう。10年前の自分がすぐそこにいて、物理教室の中庭のベンチに座っている気がした。10年前に思っていたことが、少しでも今の自分の形成に反映されているんだろうか。その頃の自分からは全く想像できない今の自分が、10年前の自分と今の自分を全く別人に見せようとしている。それになんとか抗おうと、本当の自分を見つけようと、もがいている自分を見つけて、どうもやるせない気分になった。